空から米兵が降ってきた

 その日、私は日曜日の夜にもかかわらず、アパートから大学の研究室に向っていた。明日、月曜日の十時から研究打ち合わせがあることになっていたが、資料をまだ作っていなかった。昨日、明け方まで飲んでしまい、起きたのが夕方だった。これから研究室のコッククロフトに行って徹夜で資料を作るつもりだった。コッククロフトは原子核に陽子を衝突させることにより、核反応を初めて実現したイギリスの物理学者の名前をとってつけられた建物で、放射線研究のためコンクリートの厚い壁で建てられた、窓のない外と遮断された建物だった。その建物で私は先輩達と一緒に核燃料棒からの熱除去に関する実験をしていた。
 コッククロフトが外と遮断されているということと、実験が定常になるまでの時間が長いということもあって、コッククロフトは大学院学生のたまり場みたいになって空いた時間を使ってよくこっそり麻雀をしていた。実験を始めた頃、彼らが遊んでいるのを横目で私は見ていたのだが、ある日メンツが一人足りないからということで誘われて遊んだのがきっかけで麻雀にのめり込んでしまった。ある日、私たちが麻雀に熱中していて人が入ってきたのも気づかないでいると、後ろに立ったその人が「やっていますね」と声をかけた。なんとその人は私たちを指導している教授であった。もし現在であれば、学内で麻雀するということは許されるはずもなく、見つかれば研究室出入り禁止になるところであるが、その頃は大学も鷹揚であった。
 コッククロフトが見えてきたとき、頭上を飛ぶ飛行機の爆音が近づいてきた。これから徹夜で作業しなければならない憂鬱さで私が考えたことは、もしこの飛行機が大学に落ちれば明日の打ち合わせはなくなるだろうということであった。飛行機よ、落ちれと念じながら歩いていた。その時、突然ものすごい音が鳴り響いた。爆弾が落ちたかのような音だった。最初何が起きたのかと数秒思案したが、直感的に私は飛行機が落ちたと思った。私の念が通じたのだ。
 私のいた九州大学は海岸と飛行場に挟まれた市街地にあって、飛行機が離陸、着陸をするときの飛行通路になっており、低空飛行する大きな機体が大学の真上を飛んでいた。その飛行場は民間機と米軍が共同利用していて、その頃進行していたベトナム戦争の影響もあり、夜間でも米軍戦闘機がひっきりなしに飛んでいた。最初その大学に来たときは飛行機の音の大きさにびっくりしたが、しばらくたつと次第に慣れてほとんど気にならなくなっていた。大学の講義も飛行機が飛ぶ間は中断したがそれが普通のことになっていた。時たま友人が遠くから訪れたとき、飛行機の音にびっくりするのを見て初めて気が付くくらい飛行機に関して大学人は鈍感になっていた。もちろん少数の人たちがその危険性を訴えていた。特に米軍と民間機が同じ飛行場を使用することの危険性を訴えていたが、私を含め大部分の人たちは具体的にどのように反対の声をあげていいかわからず、何もしないまま平穏な日々を過ごしていた。
 音の方向に私は走った。コッククロフトと通りを隔てて建設中だった計算機センターの上階に米軍のファントム戦闘機が機首から突っ込み炎上していた。機首は建物にめり込み、尾翼と羽根が見えていた。大学に残っていた人たちがびっくりしてしだいに集まり始めた。しばらく眺めていたが、起きたことが夢ではなく現実であることを確かめ、数分後にコッククロフトに入ろうとしたら、真っ暗な空からパラシュートが降りてくるのに気が付いた。パラシュートはコッククロフトの建物に一部引っ掛かり着地した。そこは戦闘機が突っ込んだ建物の反対側になっていたため誰も気が付いていないようだった。私が眺めていると米兵がパラシュートを外し私に駆け寄り、「テレホーン、テレホーン」と叫んだ。ヘルメットから出ている米兵の顔はまだ幼さの残る白人で、緊張で赤らんで見えた。電話を貸してくれと言っているのだなと思い、コッククロフトの内部に導きいれ電話を指さした。ところが彼が何度も何度も電話するのだが先方と通じないらしく、「オー、ノー」と叫びながら外に飛び出した。他の電話を探しに行ったらしい。その時私も動転していたので後で気が付いたのだが、学内電話から学外に掛ける場合は最初にゼロを回さなければ掛からないし、勤務時間外は市外には掛からないようになっていた。
 墜落後、十分もすると消防車や警察や、近くのアパートにいる学生も多数集まってきて学内は騒然としてきた。一時間以上たって火災も収まった頃、米軍の装甲車が墜落現場に現れ、カービン銃を携えた完全装備の十数名の米兵が降り立った。その頃、他大学では学園紛争が盛んになっていたが、私の大学ではそれほどではなかった。しかし、学内に警官が入ることすらアレルギーがある時代に、米兵が銃を持って学内に入ってきたのである。最初、米兵を遠巻きにしていた学生たちだが、誰がリードしたのか、自然発生的にデモ隊が立ち上がり「米兵帰れ」のコールが沸き起こった。最初は数名だったが、次第に大きくなり米兵を取り囲んでデモ行進した。
 墜落現場の騒動はなかなか収まりそうになく、夜も遅くなり私は疲れたので帰ろうとコッククロフトへ戻りかけた時、コッククロフトに引っかかったパラシュートに気が付いた。そこは墜落現場の裏手の暗く誰もいない場所であった。初めて見るパラシュートが珍しく触っているうちに記念に持って帰ろうと思い、パラシュートを一メートル四方破った。その後そのパラシュートは私のアパートの壁に一年くらい飾ってあった。今考えると器物破損罪に相当する行為だった。
 次の日から学内は大騒動になり授業も研究もストップした。いまさらながら学校の真上を米軍戦闘機が飛んでいるという危険性を大学人は認識し気が付いた。もし墜落現場が少しずれてコバルト貯蔵庫のあったコッククロフトに落ちていたら、放射線の汚染で大変なことになっていただろう。学内の反基地闘争が学生にも教職員にも一気に燃え上がった。次の日、学長を先頭に日和見的な学生、教職員も一緒になって四、五千人のデモが大学から市の中心街まで基地撤去を叫んで行われた。日頃は対立している学生と大学側が一緒になってデモに行くということは画期的なことだった。その後毎日のように基地撤去を叫んでデモが行われた。私もよく参加したが、二、三か月するうち、学校から中心街までのデモは良い運動になり、デモ解散後、ビアガーデンでビールを飲むのが楽しみになっていった。
 その後学内では、これまで比較的静かだった学生運動に火が付いた。墜落機体の処置をめぐり、大学側と学生活動家の間で意見が分かれた。当時「反代々木系」と呼ばれていた過激派学生は反基地運動のシンボルとして機体を宙吊りのまま残すことを要求した。一方で「代々木系」の民青などは大学側の自主撤去に賛成し、学生同士のにらみ合いが続いていた。そしてこれから長く続く学生紛争へと突入するのであるが、そのきっかけになったのが、ファントム戦闘機の墜落であった。大学紛争はそれから一年以上続き、次第に学生側が過激になり、卒業式延期、学生の授業ボイコットへと進むのであるが、四千人の機動隊学内導入で終わり、その後米軍基地も移転した。
 ファントム墜落後、のんびりしていた学内雰囲気は一変し、コッククロフトでの麻雀はなくなった。私も自己中心的な学生気分から、少しは社会的な事象に関心を持つようになり、私の青春時代は終わりを告げた。その後、麻雀仲間も次々と大学の教員になり、今では大学の名誉教授になっている。
 「一九六八年六月二日二十二時四八分頃、アメリカ空軍板付基地所属のファントム偵察機が、当時、九州大学箱崎地区内に建設中であった大型計算機センターの屋上に墜落。センターは炎上し、五、六階が全壊した。ファントム機の残骸は建物にぶら下がった状態となった。当日は日曜日で建設工事は行われておらず、また、搭乗員であるパイロット二名は墜落直前にパラシュートで脱出したため、人的な被害はなかった。」